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NO.11
学校での学びの価値

前回に引き続き、学校での学びについてのお話です。学校について、あらためて、その価値を考えてみましょう。

「寄生虫に感染していると、アレルギー反応が抑えられる」という意外な事実を藤田紘一郎氏が発表し驚かされたことは多くの人の知るところだ。
もし、寄生虫がアレルギー反応を抑えるのに役立っているとすれば「寄生」というよりも「共生」に近いことになる。
日本人は寄生虫を徹底的に駆除したが、それからもひたすら「無菌化」を推し進めてきた。その行き過ぎが人と微生物のバランスを破壊してしまい、日本人の免疫力の低下が起こってきたと言われている。
日本社会の「無菌化」は、日本人の体力の衰弱を招いた。そればかりではなく、身の回りの人が生きていくために必要な「共生菌」までも排除した。
そして、いつのまにかこれが「異物の排除」につながったのだ。
このようなことを知ると、今学校で行っている「習熟度別指導」とか「少人数指導」の方法はこれに似ているのではないかと感じるのだがいかがなものであろうか。
できる限り異質な人間を仲間に入れず、なるべく同質の子どもだけにして、効率よく知識や技術を伝授しようとする構えに酷似しているのではないか。
そんなことでは子どもの「生きる力」は育たない。
「生きる力」はすなわち「考える力」なのである。「考える力」は、異質なものに混じって、それに同意したり反発したりしながら、よりよい選択をしていくところで磨かれていくものだ。
吉永良正氏の著書『ひらめきはどこから来るのか』(草思社)の中に次のような言葉を見つけた。
「『考える力』や『ひらめき』はたんに技法的、知識的な面に限定されてはならない。考えることは生きることであり、生きることは考えることである。生きるとは、身体と共に生き、人々と共に生き、同時に生きものたちと共に、環境と共に、歴史と共に生きることである。そうした重層的な全体的、存在そのものの具体性こそが私たちがそこから出立してそこへ帰還する場所であろう。」
再度学校の教育に言及する。
学校という場で教育することの価値が「いろいろな子が一緒に学ぶ」というところにあることを思い起こさないと、学校は、ますます単調な知識伝達型学習が優先する場になってしまいそうである。
物質的に豊かで、精神的に貧しいこの時代にあって、学校での学びの価値の再考はますます重要になる。